伊 藤 恒 延 の 葬 儀 で の 弔 辞    平成23年6月2日
 

                           弔     辞

   恒さん、私が君への弔辞を読むことになったが、どうしても、これが現実のこととは思えず、実感がわか
   ない。この気持ちは、三喜会皆が同じで、君の訃報にただただ驚き、深い悲しみに浸っています。

   ましてや君のご遺族皆様は、もっと悲しく悔しい断腸の思いでおられることと思います。心からお悔や
   み申し上げる次第です。

   恒さん、君と出会ったのは、もう五十二年も前になったが、憧れの盛岡一高に入学した昭和三十四年
   一九五九年の四月だったね。この年から、定員が一〇〇名2クラス増えた1年8組で一緒になった。
   「赤坂、阿部、石村、伊藤孝男、伊藤恒延・・・」、君は52名の出席名簿の5番目だった。

   以来、君と影山、片岡、島田、八重島、吉川と私の7名だけが、その後卒業するまでの3年間、一緒と
   なった。

   また、2年生の夏からは、応援委員としても一緒で、深紅のM旗を振りあったものだった。

   あの頃の我々は、先生の出張などによる「休講」の時や授業を抜け出しては語り合った友情論、恋愛
   論や人生論に青春を感じ、高校生としての自由を満喫し、勉強や点数より、多分に文学的でロマンチ
   ズムな方向や、部活動などに価値を置いていました。

   伊藤恒延君は、といえば同期の誰もが、「山男」としての君の姿を思い浮かぶほど、高校時代の君は、
   山岳部で活動していた。土曜日となると、きまって大きなザックを背負って登校し、授業が終わると直ぐ
   に、岩手山登山に出かけた姿が思い出されます。

   何時だったか、「どうしてそんなに山に行くのか。何が面白いんだ。」と尋ねたことがあった。君は「山に
   行くと、物凄く人恋しくなり、下りてくると、女の人が皆きれいに見え、恋心が生まれるんだ。」、と言って
   笑った。淋しがりやで、人一倍人恋しがりやの君でもあった。

   しかし普段は、我々の前では、決して愚痴を言ったり人を批判したり、また涙なんか見せない恒さんだ
   ったが、あるいは山を登りながら下界での嫌なこと、面白くないこと、失恋したことなど、汗と共に流して
   やって、いつもすっきりした気分を保っていたのかもしれない。

   君はいつも、困っている人、弱い立場にある人、悩んでいる人のそばに寄って、悩みや愚痴や不満な
   どを「そっか。あんたも大変だね。」、と静かに聴いてやり、一緒に出口を見つけてやろうとする人だっ
   た。私など及びもつかない、人への深い優しさと思いやりを備えた、誰からも信頼され愛される魅力あ
   ふれる伊藤恒延という男であった。

   そんな君だったが、高校2年生の冬に「俺は成績も上がらないし、自信もなくなったから退学したい。」
   と弱音を吐いたことがあったね。辞めないようにと、我々や担任の押切恭一先生が懸命に説得したこと
   が奏功したのか、嬉しくも、君とまた同じ3年一組となった。担任は、2年に引き続いて押切先生だった。
   先生は、歩行が不自由なので、お出でになっていないが、君のあまりにも早い先立ちに、「残念だ。悔し
   いね。」とおしゃって、先生の悲しみを私に託されました。

   押切先生は、2年生の時に転勤されてこられたのだが、初めてのHRで恒延君を見た時、君は腕組み
   をしていたので、随分とふてぶてしい生徒だな、と思われたそうです。しかし、「誰か、明日の入学式の
   手伝いをしてくれる人いないか。」と言ったら、「僕がやります!」、と真っ先に恒さんが、手を挙げたので
   先生の君への評価が変わり、以来、恒さんへの信頼を強めたということでした。


   恒さんは何時でも、頼まれれば断らず引き受ける、そんなボランティア精神にあふれる、頼もしい本当に
   良い奴だった。

   押切先生は、君が岩手大学学芸学部体育科を受験する時、君が優れた山男であると同時に、将来素
   晴らしい教員になれる資質をいかに備えているかなど、期待と思いやりを内申書一杯に書いてやったと
   話されましたが、卒業後君は、中学校の校長も務め、その期待に十二分に応えましたね。特に、問題を
   抱えた生徒たちを立ち直させる、素晴らしい生徒指導だったと伝え聞いています。

   また、昭和四十一年八月には、大迫町とオーストリアのベルンドルフとの姉妹都市を記念した、岩手県
   山岳協会のアルプス登山に参加するという輝かしい記録も残しました。

   その時、君はアルプス登山隊員になりたい一心から、英語ができて通訳もできると売り込み、まんまとメン
   バー入りをしたのは良かったが、現地に行ったら、英語ができなかったことがバレて大笑いになったという
   が、実に恒さんらしいユーモラスな情熱と思いました。

   昨年の十月、我々の同期の集まりである、第9回全国三喜会盛岡開催にあたって、君は実行委員長を務
   めてくれました。参加した仲間からのお悔みのメールをお伝えます。

   何度となく顔を合わせて議論を出し合いましたが、いつも冷静で口癖は、実行委員長だが、みんながや
   ってくれるから・・・。そう言われると、頑張らなくてはと思いました。そんな彼だから、成功に終わったのだと
   思いました。
   矢張り早すぎるよ!でも、奥さん思いでしたから、よかったのかな。    盛岡・藤原征二良君」


   「穏やかで優しかった伊藤恒延さんは、私たち仲間を、いつも温かく包んで頂きました。ありがとうござい
   ました。どれだけ心丈夫だったことでしょう。 もうお会いできないと思うと、寂しく残念ですが、きっと、大好
   きな奥さまに逢うため、遠く旅立たれたんですね。              盛岡・桜糀吟子さん」



   「昨年の三喜会では二人で殆ど一睡もせず飲み続けておりました。実行委員長の重責をまっとうされまし
   たが、皆が全てやってくれるので、自分は何もしない委員長なんだ!これが成功の秘密かもしれないと言
   って笑っていたのが印象的でした。                      札幌・小田代征治君」


   「卒業後に何度かお会いしているうちに彼の人間的魅力に引きつけられてしまいました。奥様を亡くされて
   思い出を綴られた回顧録では、ひたすらな奥様への深い思いを感じさせて頂きました。湯船で奥様との夢
   を見ていたのかも知れません。そう思わなければ、彼のご逝去が間違いであってほしいと思うのです。
                                              盛岡・小原徳雄君」

   「 マサカです。言葉がありません。昨年は全国三喜会の実行委員長としてあれだけ活躍してくれたのに・・・。
   岩泉小本中学校校長時代、宮古白堊会では、一緒に何度も酒を飲みました。悔しくて、はかない思いがし
   ます。あの世で又奥さんとお会いしていることでしょう。           宮古・菊池長一郎君」

   「悲しいねえ。あの恒延くんが先に逝くなんて信じられない。もったいない。あんなに優しく頼りになる彼が。
   自彊寮での3年間の一日一日が思い出されます。青春のもっとも輝いていた大切な時間、恒延君と出会
   えたのを善しとしたい。もう一度、恒延君が大きいザックを背負って、あの良い顔で、山から下りてきてほしい。
                                              横浜・柴田尚一君」

   「未だに、信じられません。本当に無念です。恒さんとの出会いは、初めて親元を離れて、あの今では考え
   られないほどおんぼろな「自彊寮」でした。岩手山に連れて行ってもらった事等が昨日の事の様に思い出さ
   れます。 友を思いやるやさしさ、大きさを持った「本当の男」でしたね。ウソであって欲しい。
                                              茨城・村田 瑞穂君

   思い出は尽きません。言いたいことは一杯あります。恒さん、君とは、もう二度と私たちと飲み、語り、そして
   一緒に母校の校歌を歌うことは出来ななくなりました。


   君を失ったことは、本当に悲しく痛恨の極みですが、会者定離、生者必滅の理(ことわり)を粛々として受入れ
   ざるを得ないものと、無理にも承知させています。


   奥さんと子供さんやお孫さんたちをこよなく愛し、生徒のため地域のためにと、精一杯生きた君を讃え、そして
   これまでの熱い友情に深く感謝し、お別れに、母校の校歌とエールを贈ります。 

    世に謳われし浩然の

    大気を此処にあつめたる

    秀麗高き岩手山

    清流長き北上や

    山河自然の化をうけて

    汚れは知らぬ白堊城

  頑張った!頑張った!伊藤!  サンキュー、サンキュー恒さん/

   伊藤恒延君、さようなら。安らかにお眠り下さい。合掌。

  平成二十三年六月二日

             岩手県立盛岡第一高等学校 
                                  昭和三十七年卒業・白堊三喜会  高橋 盛佳